昔々アラビアで

サウジアラビアの歴史的に有名なアルウラ渓谷にあるナバテア人の古代都市へグラが、長い歳月の沈黙を破り、世界の不思議のひとつとして、その歴史に相応しい地位を手に入れる。

アルウラ渓谷の風景は、人の手だけでなく自然の力によって刻まれた奇岩から、古代からここに栄えた緑豊かなオアシスまで、印象的なコントラストを描いている。何千年もの昔、この乾燥した場所では、地下水脈のおかげで人間の定住が初めて可能となった。

アルウラ渓谷の風景は、人の手だけでなく自然の力によって刻まれた奇岩から、古代からここに栄えた緑豊かなオアシスまで、印象的なコントラストを描いている。何千年もの昔、この乾燥した場所では、地下水脈のおかげで人間の定住が初めて可能となった。

二千年前にサウジアラビア北西部のヒジャーズの岩から切り出され、その後長い歳月の中で何世紀にもわたって忘れられてきたヘグラの古代都市を訪れる幸運に浴することができた者はほとんどいない。

新しいサウジアラビアがますます世界の諸外国に対して、その扉を開くようになった現在、サウジ王国は忘れ去られた古代の偉大な宝を積極的に世界と共有しようとしている。

並び称される有名な北部のペトラと同様、ヘグラはナバテア人の手で作られた。ナバテア人が二千年以上前に建国したアラビアの貿易帝国は、短命ではあったが華やかに栄えた。

これまでに行われた中でも最も集中的な遺跡調査が10年以上かけて行われ、アルウラ地方の劇的な風景と遺産を世界最高レベルの文化的観光地へと変えるイニシアチブの一環として、岩を削って作られた古代都市の壮観な霊廟がそのベールを脱ぐ。

2020年には、ヘグラの遺跡が再び一般公開される。昨年初めて開催された壮大な芸術、音楽、歴史遺産の祭典「タントラの冬」フェスティバルでは、長年の沈黙を破ってこの遺跡を垣間見ることができた。12月19日から3月7日まで開催される今回のフェスティバルで、再び世界の関心を集める。

古代における貿易の大動脈であり、文化のるつぼであったヘグラとアルウラ渓谷の公開によって、この地域および全世界で欠けていた歴史のチャプターが復元され、これまで半分しか語られてこなかった物語が完全なものとなる。


サウジアラビアのアルウラ地区安倍総理大臣と安倍昭恵夫人が感銘を受けたところ。

日本の安倍晋三首相がサウジアラビア訪問中にアルウラを訪れ

日本の安倍晋三首相がサウジアラビア訪問中にアルウラを訪れ

日本の安倍晋三首相がサウジアラビア訪問中にアルウラを訪れ、今年中の一般公開の準備を進めている古代ナバテア人が住んだこの地にスポットライトが当てられた。安倍首相がアラブ首長国連邦へ移動する前にサウジアラビアで最後に訪れたアルウラは、美しい砂漠の景色の中に位置し、豊富な考古学的財宝に恵まれた地である。

サウジアラビアのアルウラでラクダに乗って笑顔している安倍昭恵夫人

サウジアラビアのアルウラでラクダに乗って笑顔している安倍昭恵夫人

ヘグラ:時の中に消え去った古代都市

ジャバル・アル・アマルの2基の墳墓。背後はジャバル・イスリブ。一帯で最も高い砂岩の露頭で、古代にナバテアの神々に捧げられる壁龕、祭壇その他のモニュメントが刻まれた。

ジャバル・アル・アマルの2基の墳墓。背後はジャバル・イスリブ。一帯で最も高い砂岩の露頭で、古代にナバテアの神々に捧げられる壁龕、祭壇その他のモニュメントが刻まれた。

1870年代にイギリスの探検家チャールズ・モンタギュー・ダウティは、マッカへと向かう「大ダマスカス巡礼団」に加わってヘグラに赴いた。

1870年代にイギリスの探検家チャールズ・モンタギュー・ダウティは、マッカへと向かう「大ダマスカス巡礼団」に加わってヘグラに赴いた。

現在は頭部がもげているワシが、ヘグラの市壁の北東にある地塊のカスル・アル・ビントに刻まれた墳墓の入口を見張っている。ここは1世紀初めから埋葬地として使用された。この鳥はナバテア人の神、デュシャラを表している可能性がある。

現在は頭部がもげているワシが、ヘグラの市壁の北東にある地塊のカスル・アル・ビントに刻まれた墳墓の入口を見張っている。ここは1世紀初めから埋葬地として使用された。この鳥はナバテア人の神、デュシャラを表している可能性がある。

19世紀のイギリスの探検家チャールズ・モンタギュー・ダウティが初めて目にしたとき、それはシナイの「その谷には雨が降ることのない人里離れた広大な入り組んだ山岳地帯」のただなかにあった。

長く使用されていない言語で記されていた、「砂と風によって研磨された岩石」に刻まれた神秘的で「得てして奇妙ななぐり書き」の碑文は、彼にとっては何の意味もなさなかった。

詩人であるダウティは、自分が「古代の旅人の名前や……、挨拶の言葉」を眺めているのかもしれないと夢想した。彼の死の数十年後に考古学者が証明したとおり、ダウティは完全に正しかった。

ダウティが発見したのはぼんやりした太古の中へと消え去っていったナバテア人が2,000年以上前に岩に刻んだ跡だった。彼らが古代世界の貿易ルートを移動していた時代のことだ。

アフマド・「ミスター・アルウラ」・アル・イマームと地元の語り部が2つの古代都市を案内してくれる間、アルウラ王立委員会CEOのアムル・アル・マダニが古代の十字路としてのアルウラについて語ってくれた。

今日のヨルダンにあるペトラは、1845年にあるイギリスの詩人によって不朽の名声を与えられることになった「人類史の半分ほどの歴史を有するバラ色の都市」だが、1812年にスイスの旅行家ヨハン・ブルクハルトによって「発見」され、西洋ではすでによく知られていた。

だが、1877年にヒジャーズ山脈の人目につかない場所で、ダウティは廃墟となった都市に出くわした。岩に刻まれた墳墓やモニュメントが多く認められる、西洋にはまったく知られていなかった都市だ。

1888年に出版された著書『アラビア砂漠の旅行』のなかでダウティは、ペトラからほぼ30キロ南東にあるマアーンの集落で、はるか彼方のマダイン・サーレハという場所に「ペトラに似た、多くの碑文がある絶壁に刻まれた別のモニュメント」があると聞いたときのことを想起している。

それは「毎年恒例のダマスカスの巡礼団がマディーナとマッカへと至る長い砂漠の道の途上で」給水するための人里離れた場所だ、とダウティは知った。「マアーンから南に向かってほぼ数日の旅程だが、他の時期には、野蛮なベドウィンが危険で辿り着くのは困難」とのことだった。

引き留めるのを振り切って、ダウティはマダイン・サーレハのモニュメントを訪れる「危険を冒す決心をした」。保護を求めて「大ダマスカス巡礼団」に加わり、信仰者たちと一緒に旅してマッカへの古い巡礼路を南に向かい、「ラクダの背に乗った退屈な3週間が過ぎた後に」ついにマダイン・サーレハに到着した。

その地で、ダウティは古代に繁栄していたことが明らかな、だが時の流れと砂にほぼ飲み込まれてしまった集落の証拠を発見した。古代都市ヘグラだ。ペトラと同じく、この都市もナバテア人が建設した。紀元前4世紀ごろから紀元106年のローマによるアラビア侵攻までの間、アラビア半島を東から西へ、また北から南へと横断する高収益の貿易ルートを支配して、広大な砂漠の王国を築き上げた民族だ。

ダウティは、かつて繁栄を見た「荒れ果てた古びた砂原」の周囲を取り囲むようにして、この古代都市を見下ろしてそびえ立つ砂岩の露頭に刻まれた、「人間の骨で溢れ返っている」壮大な墳墓を発見した。

ダウティは巡礼団が帰ってくるのを待ちながら、丸2カ月をその一帯でだらだらと過ごした。モニュメントを訪れ、その地の古代の多くの碑文を慎重に記録した。

現在は頭部がもげているワシが、ヘグラの市壁の北東にある地塊のカスル・アル・ビントに刻まれた墳墓の入口を見張っている。ここは1世紀初めから埋葬地として使用された。この鳥はナバテア人の神、デュシャラを表している可能性がある。

この10年間にかつて見ないきわめて徹底的な考古学調査の対象になっていたヘグラにとって、ダウティの発見は不明瞭な古代に脚光を浴びせる長い旅の始まりとなるものだった。

だが、ナバテア人については、民族の起源を巡るなぞは今も続いている。この民族は、規模と範囲においてサウジアラビアの前触れとなる広大な王国を400年間にわたって支配し、また、その書記言語はアラビア語の発展の最後のステップの一つとなるものだ。

「紀元前311年以前のナバテア人の歴史は、情報源が不足しており、今もなぞのままです。それ以前にはどの情報源にも言及されていません」と、ミュンスター大学古代中近東学研究所のロバート・ヴェニングは述べる。

ヴェニングは研究を通じて次のような結論に達した。ナバテア人はどこからやってきたのだとしても、紀元前380年ごろまでに高収益の香と香料の貿易に携わるようになった。富が増大し、紀元前311年までに強大な勢力の標的にされた。

「隊商の街エル・ヘジル(ヘグラ)にかつての住民の時代のものはほとんど残っていない。粘土で造られた通りはチリの形で吹き払われ、砂漠に戻った。私たちに書き残された物語は、不気味な雰囲気が漂うこの近隣にそびえる多数の荒涼たる険山への読みにくいなぐり書きと、この荒涼たる山岳地帯で恐れを抱いた旅人が不思議がる、今では人通りのまれな岩となった葬送のモニュメントに刻みこまれた称号とに、認めることができるだけだ……」

1888年に出版された、英国の詩人・探検家のチャールズ・モンタギュー・ダウティの『アラビア砂漠の旅行』より。

ナバテア人に言及した知られている最古の史料は、ギリシアの将軍であるカルディアのヒエロニムスが著したものだ。ヒエロニムスは、失敗に終わった一連のナバテア人への襲撃に参加した。紀元前311年に執筆されたその原報告書はもはや存在しないが、シチリアの歴史家ディオドロスが詳細に引用している。ディオドロスの『歴史叢書』は紀元前60年から同30年にかけて執筆された。

紀元前3世紀にヒエロニムスが遭遇した時点では、ナバテア人はまだ遊牧民だった。「野外に居住しており、敵軍が水を入手できるような、川も満ち溢れるばかりの泉もない砂漠を故国といっている」と記述している。

だが、ナバテア人がすでに本来の天職を見つけていたのは明らかだ。「砂漠を牧草地としての利用するアラブ部族は多数存在するが、ナバテア人は富の点で他をはるかに上回る。……かなり多数の者が、乳香と没薬、それに最も高価な種類の香辛料を海まで運搬することに慣れている。調達は、それらの商品をアラビア・エウダイモン(アラビア半島南部)と呼ばれる場所から運搬してくる者から行っている」とディオドロスは記述している。

紀元311年にマケドニアの将軍アンティゴノスに仕える軍人としてナバテア人と戦ったヒエロニムスは、ナバテア人の富の一部を手に入れることを目指していたが、この一見取るに足らない貿易商人がくみしやすい相手ではなかったことを、私たちはディオドロスを通じてヒエロニムスから知ることができる。

アンティゴノスは将軍アテナイオス指揮下の4,000人の歩兵と600人の騎兵からなる遠征軍を派遣し、「異邦人を急襲して、戦利品として家畜を全頭奪い取れ、と将軍に命じた」。

多くのナバテア人が年に一度の市場に集まっており、安全のために財産と家族を「きわめて強力だが城壁のない……ある岩」に置いてきたことを、アテナイオスは知っていた。歴史家はそう考えているが、これはペトラだった可能性がある。ペトラは紀元前4世紀からナバテア人の首都だったと考えられている。

アテナイオスは無防備のナバテア人を襲撃して、その一部を「すぐに殺害し、一部は捕虜として連れていき、その他の負傷者は置いていった。乳香と没薬のほとんどを取り集め、銀は約500タラントになった」

アテナイオスはその場から立ち去ったが、捕虜の一部が逃走し、8,000人の兵士からなるナバテア軍を引き連れて戻ってきた。ナバテア軍は早朝に宿営地を攻撃した。引き続く大虐殺を逃れることができたのはわずか50人だった。

激怒したアンティゴノスは、初回遠征の報復として、8,000人からなる別の軍隊を派遣した。今回はナバテア人は準備ができており、岩の高台に陣取っていた。ギリシア人はまたも敗北を喫した。ナバテア人の地に侵入したことからいくらかの利益を得ようとする最後の試みにおいて、アンティゴノスは、出征の歴史を記録したヒエロニムスの指揮の下、第3の軍隊を派遣した。目的は、死海の水面に浮いていることがわかった高価な瀝青を取り集めることだった。

結果は「アンティゴノスの期待に沿うものではなかった。アラブ人は6,000人もの人員を集めて葦のいかだで船中の敵に迫り、そのほとんどを矢で射殺した。

ここに至って、アンティゴノスは損切りした。

ナバテア人については、カルディアのヒエロニムスによる観察の時点から、その次に歴史書に記述された時、すなわち、紀元前1世紀末に広範な地域を旅行した(今日のトルコに含まれる)アマスヤ出身のギリシアの地理学者・歴史家であるストラボンの報告書までの3世紀間に、大きな変化が認められる。

紀元前7年から紀元18年までの間に著したと考えられている著書『地理学』のなかでストラボンは、今やアラビア横断貿易ルートの支配権が絶頂の域に達していたナバテア人が、移動生活をやめ、裕福に、また、当時としては不思議にも民主的に暮らしている様子を描いた興味をそそられるスナップショットを提供している。

ストラボンがナバテア人に出会った場所は正確にはわからない。その民族史においてこの時期までにナバテア人の影響力は、北はダマスカスから地中海沿岸のガザ、西はシナイ半島まで、そして、紅海沿岸から今日のサウジアラビアの半分を東へと横断する、広大な地域に及んでいた。最南端の境界は、ヘグラの南のどこかと考えられている。

だが、出会った場所がどこだとしても、ストラボンはナバテア人のことをよく理解しており、やや驚いた様子で次のように記録することができた。ナバテア人が富裕であるのは明らかなのに、奴隷がほとんどいない。当時としては珍しい習慣だが、「だいたいにおいて仕えているのは親族で、それ以外ではお互いに仕え合ったり、自分で行ったりしている。王でさえだ」とストラボンは報告している。

ストラボンの報告書のある箇所からは、ストラボンはペトラにナバテア人を訪問した可能性があるが、約500キロ南方にある姉妹都市のヘグラには赴いていないことが示唆される。「石を使用しているため、費用がかかっている」ナバテア人の本拠地を賞賛しつつ、「平和のおかげで、都市に城壁が築かれていない」ことを指摘している。この10年のヘグラの発掘によって疑問の余地なく証明されたように、このナバテア王国の最南端の都市は間違いなく、強固な城壁に取り囲まれていた。その一部は1世紀の半ばから後半にさかのぼり、ある古代の門はおそらく紀元前1世紀末ごろに建設された。

ヘグラの墳墓の大半は1世紀から4世紀初めにかけての時期に刻まれ、使用されたものだが、この地区の占拠は紀元前4世紀ごろにまでさかのぼる。ヘグラにおけるなんらかの形でのナバテア人のプレゼンスがしっかりと4世紀まで継続した証拠はますます増えている。ただし、この地域と高収益の貿易ルートの支配権は紀元106年に終焉を迎えた。その年、領域の全体がトラヤヌス帝の軍団の侵略を受け、アラビア・ペトラエア属州としてローマに組み入れられた。

何十年もの間、アラビアにおけるローマの影響が紅海のアカバ湾口よりはるか南方まで及んでいたことを示唆する証拠は存在しなかった。だが、この数十年にわたって驚くべき物語が明らかにされた。この古代都市の南の境界に要塞化されたローマ軍駐屯地が発見されたことは、そのほんの一部にすぎない。それらはスコップによって、この世界遺産すなわちヘグラを2千年もの間よくわからない状態にしていた時の砂を払い去った、サウジアラビアとフランスの合同考古学チームの取り組みのおかげだ。

アル・ウーラ:考古学者のファンタジー

古代都市ヘグラとクルの間を蛇行しながら30km以上にわたって続くアル・ウーラ渓谷では、考古学的に価値の高い遺跡や遺物が豊富に発見されている。これらの発見を繋ぎ合わせることで、先史時代からイスラーム布教後、そして現在に至るまでの歴史が見えてくる。

ヘグラにあるナバテア人の墓所は、この古代都市を取り囲む砂岩の露頭を掘って作られている。

ヘグラにあるナバテア人の墓所は、この古代都市を取り囲む砂岩の露頭を掘って作られている。

ライラ・ネームは、ファンタジーTVドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』をあまり楽しんでいなかった。これは、彼女が考古学者であり、フランスの権威ある国立科学研究センターの教職員を務める傍ら、2008年からはヘグラ考古学プロジェクトの共同統括者に名を連ねている人物であることを考えれば、それほど驚くべき事実ではないかもしれない。

彼女にすれば、実際の歴史、特に彼女をはじめ様々な国籍と専門分野を持つメンバーで構成される彼女のチームがここ10年程の間にアル・ウーラ渓谷で発見した歴史の方が、架空の物語よりも遥かに興味深く感じられるからだ。

しかし、しばらく前に、ネームはフランスの新聞『ル・モンド』紙で『ゲーム・オブ・スローンズ』の記事を読んだ。そこに書かれていた架空の大陸ウェスタロス、そこと北方地域を隔てる氷の壁、その壁によって超自然的異形の集団〈ホワイト・ウォーカー〉の襲撃から人々が守られているという描写によって、彼女の頭には、ヘグラにおける彼女のチームによる数多くの発見の一つが思い浮かんだ。

「記事では、英国北部にあるハドリアヌスの長城が引き合いに出されていました。ローマ帝国が北方の野蛮人の侵入を防ぐために築いたものです。まさに帝国を脅かす〈ホワイト・ウォーカー〉ですね」と彼女は話す。

ヘグラにあるナバテア人の墓所は、この古代都市を取り囲む砂岩の露頭を掘って作られている。

ハドリアヌス帝の命令によって西暦112年から118年の間に築かれた長城は、ローマ帝国領の北東の極限でもあった。そこから南に4,000km以上離れたヘグラで、考古学者たちはローマ帝国の地図を描き変える発見をした。ローマ帝国の軍団が駐留していた要塞の遺跡が見つかったことで、ローマ帝国のアラビア属州の南限がこれまで考えられていたよりも遥かに南にあったことが、疑いの余地もなく証明されたのだ。

「ですから、ブリタニア北部にあったハドリアヌスの長城がローマ帝国の氷の壁だとすれば」ネームは続ける。「私たちが灼熱のアラビアのヘグラで発見したものは、帝国の炎の壁と呼べるでしょう」

ヘグラとナバテア人について、ネームほどよく知る人物はあまりいない。現在53歳のネームが、ナバテア人の研究のために初めてシリアに来たのは碑文研究(古代銘文の解析)を専攻する考古学生だった19歳の時だ。その後、1994年にペトラについての博士論文を完成させた。

2001年には、ネームはハーイル大学の考古学者ダイファッラー・アッ=タリーと共にマダイン・サーレハ遺跡の考古学プロジェクトの共同統括者に任命されている。2002年から2005年にかけて、フランスの考古学者チームはサウジアラビア観光・遺産委員会と協力し、ヘグラ遺跡で初の包括的調査を行った。この時に築かれた基礎をもとに、2008年からは同遺跡の系統的な考古学的調査が始まり、現在も続けられている。

アル・ウーラ王立委員会のCEO、アムル・アル=マダリは、アル・ウーラを「生きた博物館」にする計画の中で考古学者たちが果たす役割について語っている。

また、この調査によって得られた情報によって、サウジアラビアはヘグラをユネスコ世界遺産に申請し、2007年に同国初の世界遺産として登録を認められた。

2018年、ヘグラにおけるフランスとサウジアラビアの共同考古学調査事業をきっかけに、フランスの国立機関アファルーラが発足した。ヘグラがあるアル・ウーラ地域の経済、観光、文化の発展を目的としてサウジアラビアを支援するために設立された機関だ。

2020年3月8日まで開催される、パリのアラブ世界研究所で開催されている展示会の「アル・ウラー:アラビアの不思議」では、たくさんのアル・ウラー渓谷の古代の財宝が展示されている。

この遺跡にはダダン文字の彫られた石が含まれ、そこには紀元前5世紀から1世紀にかけてのヘグラ周辺の聖地への巡礼について記されている…

この遺跡にはダダン文字の彫られた石が含まれ、そこには紀元前5世紀から1世紀にかけてのヘグラ周辺の聖地への巡礼について記されている…

2020年3月8日まで開催される、パリのアラブ世界研究所で開催されている展示会の「アル・ウラー:アラビアの不思議」では、たくさんのアル・ウラー渓谷の古代の財宝が展示されている。

この遺跡にはダダン文字の彫られた石が含まれ、そこには紀元前5世紀から1世紀にかけてのヘグラ周辺の聖地への巡礼について記されている…

この遺跡にはダダン文字の彫られた石が含まれ、そこには紀元前5世紀から1世紀にかけてのヘグラ周辺の聖地への巡礼について記されている…

…また、西暦1世紀から3世紀頃のラクダの遊牧民のものと見られる葬儀の石碑もある…

…また、西暦1世紀から3世紀頃のラクダの遊牧民のものと見られる葬儀の石碑もある…

…そして、紀元前5世紀から1世紀のライオンの像で装飾されたバス・レリーフも。

…そして、紀元前5世紀から1世紀のライオンの像で装飾されたバス・レリーフも。

22,000㎢にわたるアル・ウーラ全域を対象にした調査によって、既に23,000ヶ所以上の考古学的価値のある遺跡が確認されている。

22,000㎢にわたるアル・ウーラ全域を対象にした調査によって、既に23,000ヶ所以上の考古学的価値のある遺跡が確認されている。

古代都市ヘグラの南東にある、ローマ軍が駐留していた要塞の室内からは、5cmに満たない小さな青銅製のヤギの像が出土した。

古代都市ヘグラの南東にある、ローマ軍が駐留していた要塞の室内からは、5cmに満たない小さな青銅製のヤギの像が出土した。

調査チームは現在、アル・ウーラ奥地の古代遺跡の外観をヘリコプターから撮影している。

調査チームは現在、アル・ウーラ奥地の古代遺跡の外観をヘリコプターから撮影している。

ヘグラでは大量の陶器が発見されている。小さな断片だけのものから全体の形が残っている壺まで、その年代はナバテア人の移入より前から2世紀初頭のローマ帝国占領期、そしてその後の時代まで幅広い。これらの中にはこの地域で作られたものも含まれるが、地中海沿岸地域やメソポタミアから輸入されたものもあり、アラビア全体に広がる隊商路におけるヘグラの重要性を見て取ることができる。

ヘグラでは大量の陶器が発見されている。小さな断片だけのものから全体の形が残っている壺まで、その年代はナバテア人の移入より前から2世紀初頭のローマ帝国占領期、そしてその後の時代まで幅広い。これらの中にはこの地域で作られたものも含まれるが、地中海沿岸地域やメソポタミアから輸入されたものもあり、アラビア全体に広がる隊商路におけるヘグラの重要性を見て取ることができる。

調査チームの一部の研究者は、渓谷のほぼ全長にわたって続くオアシスにある調査対象を全て記録することに専念している。

調査チームの一部の研究者は、渓谷のほぼ全長にわたって続くオアシスにある調査対象を全て記録することに専念している。

紅海から200kmほど離れた内陸にあるヘグラは、ヒジャーズ山脈の南東に広がる大きな平野に位置する。この平野には、有史以前から毎年春と初夏にこの地域を吹き抜ける北西風によって大きく削り出された砂岩の丘が点在し、単独の山または複数が集まった山塊を形成している。その中でも最大のものが地域の北東に位置するジャバル・イスリブで、平野から100mの高さがある。

この地形を作り出した風によって、他にも奇妙で想像力をかき立てる造形が楽しめる。その一つが、現在のアル・ウーラ市街地から10kmほど北東にある3層の岩で、何百万年という時間によって彫刻されたこの岩は象に似た形をしている。

遺跡の中心部に位置するのは古代の居住地域だ。ここにはかつて岩盤に130ヶ所もの井戸が掘られ、そこから広がるオアシスがこの古代都市の生活を支えていた。主に泥れんがで作られた古代の建物の外壁を除いて、地上に現存する遺物は非常に少ないが、2002年から2005年の地球物理学的調査により、非常に興味深い地下構造の存在が明らかになっている。また、都市を取り囲む壁の一部は肉眼で見ることができる。

ユネスコ世界遺産のノミネートでも強調されたヘグラの主役と言えば、間違いなく居住地域を取り囲むネクロポリス、つまり死者たちの町として作られた大規模な墓所だ。岩肌に掘られた紀元前1世紀から西暦75年頃の巨大な霊廟が90ヶ所以上、生者の住む街を囲んで見下ろすように作られている。

4つの主要なネクロポリスの中でも、西暦1年から58年にかけての31の霊廟があるカスル・アル=ビントは、遠くから見ても近くから見ても、最も印象的な景観を誇っている。多くの霊廟は、外観の正面に怪物やワシ、その他の小さな動物や人間の顔などが彫刻されている。

22,000㎢にわたるアル・ウーラ全域を対象にした調査によって、既に23,000ヶ所以上の考古学的価値のある遺跡が確認されている。

多くの霊廟の正面に見事な彫刻が施されている点はペトラと同じだ。しかし、ペトラとは異なり、その多くには古いナバテア語の碑文が記されている。大抵は死者に新たな名前を与える内容のもので、かつてヘグラの住人として生きた人々について窺い知れる特徴的な手がかりとなっている。

ネームにとって、ナバテア人の最も興味深い点の一つが、霊廟の彫刻に実に様々な建築様式の影響が見られることだ。ギリシャ、エジプト、フェニキア、ローマ、メソポタミアの建築に見られる多くのモチーフが取り入れられているという。

「ナバテア人は、まるでスポンジのように周辺地域から様々なものを吸収して、完全に彼ら独自のものに変えていました。建築はその一例です」とネームは言う。「その結果、他のどこでも見られない様式が生まれたのです。これは彼らの陶器や文書、そして宗教にも言えることです」

このように文化の垣根を超えて多様な様式を取り入れていた事実は、ナバテアの人々が古代アラビアの貿易路を支配・統制することで利益を生んでおり、そのために非常に広い行動範囲を持っていたことを証明している。

「彼らは旅をする民族でした」とネームは言う。「約400年間にわたって独立を守っていましたが、2世紀初頭にローマ帝国との交流が始まり、その前にはギリシャとも交流を持っていました。そこで見たものを自分たちで模倣するようになったというわけです」

ヘグラの大規模な霊廟のうち数ヶ所で2008年から続く発掘調査では、大量の人間の骨、皮革や布などが発見されており、考古学者たちはこれらの発見を繋ぎ合わせることで、ナバテア人の葬儀について、人の死から埋葬までの一連の儀式を明らかにしつつある。

特に注目すべきは、考古学者たちがJGN 117という識別コードで呼ぶ霊廟で、それまで隠されていた多くのことがここから明らかになっている。この霊廟の扉の上には西暦60年から61年頃の石板が掲げられ、そこには次のような碑文が彫り込まれている。「ここはワフブの娘ヒナットの霊廟であり、彼女とその子ら、そしてその永代の子孫のために作られた。この霊廟を売却し、または担保にし、またはこの霊廟の賃貸契約を結ぶ権利は何人にも認めない。これに反する行いをした者は誰であれ、その責任は正当な相続人に帰属する。ナバテア人の王、マリク王の統治21年」

ヒナットの霊廟の床を覆う砂の中から、考古学者たちは少なくとも80人分もの人骨を発見した。成人のものも子供のものもあり、西暦1世紀から3世紀の間にここに埋葬された人々のものと見られる。

古代都市ヘグラの南東にある、ローマ軍が駐留していた要塞の室内からは、5cmに満たない小さな青銅製のヤギの像が出土した。

霊廟での思いがけない、そして心を揺さぶる発見の一つが、女性の頭蓋骨に巻かれた布地のひだの中から、ヤシの葉をより合わせて作った糸にデーツの実を通したネックレスの残骸が見つかったことだ。死後の世界へ旅立つ者へのこの贈り物は、ヘグラとアラビア半島に特有の習俗だ。

考古学者たちは、2015年に発表した論文の中で、頭蓋骨に巻き付けられた布と革のひだの表面に「顔の形が転写されているのが見られ、また数本の髪の毛も発見された」ことを印象深く報告している。

このことや、他の霊廟での発掘調査をもとに、ナバテア人の起源の謎を解く手がかりが得られるかもしれない。現在、ハーバード・メディカル・スクールでは、古代アラビア人のDNA解析プロジェクトの一環として40人分の人骨標本のDNA解析が行われている。

当然ながら、ヘグラは孤立していたわけではない。ヘグラとペトラの間を走るダーブ・アル=バクラは、古代にラクダによる交易路として使われていた。この場所における徹底的な調査では、多様な範囲の言語で記された多くの碑文が発見されており、古代のスパイス貿易の多文化的性質と、交易路を通っていた様々な民族の繁栄と衰退を証言している。彼らは交易路の岩だけでなく、サウジアラビアの古代史にもその足跡を刻みつけていたのだ。

交易路に残された文書や文字のうち、後世の我々が見ることができるものだけでも、紀元前500年頃にメソポタミアによる征服以降の公用語としてペルシャ人が採用した帝国アラム語をはじめ、ギリシャ語、パルミラ語、タイマ語、ダダン語、ヒスマー方言、サファー方言、ナバテア語、ナバテア・アラビア語(最終的にアラビア語に発展した移行言語)などがある。

2004年、ネームと7人のサウジアラビア人のチームは、3日間をかけて1999年にサウジアラビアの考古学者アリ・アル=ギャバン博士が初めて発見したこの交易路を辿った。現在のアル・ウーラの都市の北側のはずれからヨルダンとの国境まで300kmに及ぶこの旅で、彼女らは砂漠で寝起きしながら数百枚の写真を撮り、900以上の碑文を記録した。古代の旅人たちは、ヨルダン国境からさらに150km先にあるヘグラの北の姉妹都市、ペトラまで進むこともあったという。

2018年、全ての碑文を収録した目録が、ネームの編集による300ページ以上の大著『ダーブ・アル=バクラ―北西アラビアの隊商路(The Darb Al-Bakrah – A Caravan Route in North-West Arabia)』として出版された。ネームは、その時の旅で古代ナバテア人をより深く知り、親しみを感じるようになったという。

「古代の人々の足跡を辿る中で、時折、異なる場所で同じ人物の痕跡を見ることがありました」と彼女は当時の思い出を語っている。「ある場所に自分の名前を刻んでいた人が、30km先の別の場所でも同じ名前を刻んでいるのです。さらにある場所では、同じ人の名前が2ヶ所のローマ時代初頭の碑文に刻まれていて、日付には7年の間隔が開いていたこともありました」

ヘグラからヨルダンへの長い旅路の途中で見られる碑文の中には、ただその場所に来た記念に名前だけが記されているもの(観光地の落書きの古代版)もあるが、異なる時代について窺い知ることのできる興味深い碑文も多い。名前のそばに「旅の安全を」と記されたものや、旅人が「記憶に残るように」と願うものもあれば、書かれた時代の危険の多さを窺わせるような「ヘグラへ行く全ての人とラクダが安全であるように」との希望を記したものもある。またある人は、霊的存在が彼の「騎兵隊に付き添い、守護している」ことを記している。

無意識に自分の存在を永遠に残そうとしたのか、自らの職業について記した人々もいた。こうした碑文の書き手には、軍人や兵士、使用人、書記、ラクダの繁殖・販売業者、司祭の他、おそらくヘグラの霊廟に葬られる遺体に準備を施しに来たと思われる遺体処理業者などがいる。

ヘグラの岩に刻まれた墓所群だけでも壮大なものだが、過去17年間に約30㎢のこの遺跡全体にわたって徹底的に行われた考古学的調査は、ここからさらにアル・ウーラ全体、つまり古代都市ヘグラの南に広がるオアシスの渓谷に留まらず、その周辺の22,000㎢以上の地域へと拡大する、驚くほど野心的な考古学調査の準備段階としての役割も果たしていた。

その仕事に着手したのが、アメリカの考古学者レベッカ・フット博士だ。彼女は2017年にアル・ウーラ王立委員会(RCU)における考古学的・文化的遺産保存の責任者に任命されている。

調査チームは現在、アル・ウーラ奥地の古代遺跡の外観をヘリコプターから撮影している。

「アル・ウーラ地域全体を対象とした考古学調査はこれまで行われていませんでした。多くの記録が残されている中心部のオアシス渓谷ですらそうです」と、アラブ・ニュースの取材でフットは語っている。「ですから、私の最初の仕事はそこに何があるのか明らかにすることでした。差し迫った開発から遺跡を保護し、観光を活性化する可能性を探り、将来的な学術調査の対象としてどのようなものがあるかを知るためです」

着手して早々に、フットは自分と調査チーム(発足当時は20名、現在40名)が向き合うプロジェクトがとてつもなく大規模なものだと気付くことになった。「この調査の特に並外れた点は、その莫大な規模です。サルデーニャ島とほぼ同じ大きさの地域全体を、ほんの2~3年で調査するというのは、異例で困難な課題です」

この課題に取り組むことを可能にするために、彼女らは広大な対象地域を3つの区域に分割し、各区域で別のチームが微妙に異なるアプローチを使って調査にあたることにした。現在のところ最大の区域は「奥地(hinterland)」と呼ばれている。西側のヒジャーズ山脈の頂上から東側の砂漠まで、険しい地形が広がる19,000㎢以上の区域だ。

2番目に広いのは、中央にあって「中心部(core)」と呼ばれる約3,300㎢の区域だ。中心部には、48㎢の細長いオアシスが、ダダンの都市クル(現在のアル=マビヤット)からヘグラの南のはずれまで、30kmほどの距離にわたって蛇行しながら横たわっている。この区域の詳細な調査は10月に始まった。ヘグラから17km南に位置する、アル・ウーラの旧市街(オールドタウン)として知られる現在は無人の居住地も、個別に調査されることになっている。

この居住地にはかつて多くの住人がいたが、1980年代になって、彼らが数km南に新たに作られた現在のアル・ウーラの都市に快適な生活を求めて移り住んだため無人化した。ゴーストタウンとなった旧市街は地域の歴史的遺産として残され、魅力的な観光地として人気を呼ぶことが確実視されている。

「現在我々が集中的に取り組んでいるのは、建物を細部まで詳細に記録するとともに、将来のさらなる崩壊を防ぐために補強することです」とフットは付け加えた。「これらの建物がどのような形で地域の再活性化に利用されるかは、利害関係者と包括的な計画の責任者によって決定される予定です」

この地域がどれだけ古いかについては、「現在も調べている途中」だという。「例えば、イブン・バットゥータが14世紀初頭に書いた紀行文の中に、この地域が当時『大きな村』だったと記されていますが、それよりは確実に古いはずです。ここに人々が初めて移入した時期については、目的を絞った発掘調査で明らかになることを期待しています」

何世紀にもわたって修復が繰り返されたことで年代の推定は困難になっているが、現存する一部の壁は少なくとも800年以上前に作られた可能性があるという。

元々は石の基礎の上に泥れんがで築かれた頑丈な家屋は、ほとんどが各階に大きな部屋が1室ずつという小さなもので、密集して建てられていた。フットによれば、何世代にもわたって「各家庭がこの地域のオアシスに農場を持っていた」という。「彼らは冬の間は旧市街に住み、夏の間は農場に住んでいたのです」

フットとそのチームが取り組んでいるプロジェクトが凄いのは、物理的な範囲の大きさだけではない。彼女らの調査の対象となっている時代は、先史時代から第一次世界大戦期にまで及ぶのだ。理由は単純で、アル・ウーラ渓谷には、ダマスカスからマディーナへの巡礼者の旅を促進するためにオスマン帝国によって建設され、1908年にに開通した全長1,300 kmのヒジャーズ鉄道が走っているからだ。

ダマスカス~マディーナ間を結ぶヒジャーズ鉄道の開通当時から稼働し、第一次世界大戦後に廃車となった機関車。ヘグラの古代都市遺跡から近い場所にある駅舎の多くは保存されている。

ダマスカス~マディーナ間を結ぶヒジャーズ鉄道の開通当時から稼働し、第一次世界大戦後に廃車となった機関車。ヘグラの古代都市遺跡から近い場所にある駅舎の多くは保存されている。

これほど広大で、かつ互いに異なる多様な要素を含む範囲を調査するフットのチームは、最新の考古学的手法を利用している。衛星画像を活用している他、ドローンを利用した写真測量調査では複数の角度で撮影した写真を3D画像データに変換する。また、LIDAR、光検出法、レンジングとも呼ばれる航空レーザースキャン技術は、植物の葉に隠された地面の特徴を「見る」ことを可能にする。高解像度のオルソフォト(正射写真)とこれらの技術を組み合わせることで、100年以上前の人間の活動の痕跡を見つけることが可能になる。

この調査は2018年の春に開始された。この地域に眠る考古学的資料の豊富さを暗示するかのように、それからわずか2年間で23,000ヶ所という驚異的な数の遺跡が発見された。しかも、それらの多くにはそれぞれ複数の調査対象が含まれているという。

ヘグラでは大量の陶器が発見されている。小さな断片だけのものから全体の形が残っている壺まで、その年代はナバテア人の移入より前から2世紀初頭のローマ帝国占領期、そしてその後の時代まで幅広い。これらの中にはこの地域で作られたものも含まれるが、地中海沿岸地域やメソポタミアから輸入されたものもあり、アラビア全体に広がる隊商路におけるヘグラの重要性を見て取ることができる。

中心部の区域では、これまでの発見の中で最も多いのが「芸術/コミュニケーション」に分類されるもの、つまり岩に彫刻された芸術品と碑文だ。現在までに、チームは9つの言語で書かれた碑文を確認している。サムード語、アラム語、ダダン語、マ―イン語、ナバテア語、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語、アラビア語で、これらの言語が使用されていた時代は古いもので千年以上前に遡る。

発見されたものは全てオックスフォード大学が開発した専用のデータベースに記録されている。「私たちは全てを正確にデータベースに記録することに重点を置いています」とフットは付け加えた。主にRCUの歴史遺産管理ツールとして位置付けられているこのデータベースだが、同地域で調査プロジェクトを行うことを希望する研究者には共有されることになっている。

調査チームが解き明かしたいと望んでいる魅力的な謎の一つに、中東の他の地域と異なり、アル・ウーラ渓谷における居住地域が定着しなかった理由がある。

「現在までに分かっている主要な居住地域は4ヶ所です」とフットは話す。「最初の居住地はダダン王国期に渓谷の中心部から始まり、後にヘグラの方まで移動しました。そしてクルに移った後、現在旧市街と呼ばれている場所まで移動し、そこには1980年代まで人々が住んでいました。なぜ人々の居住地は1ヶ所に留まらず、渓谷内でこのような軌跡を描いて移動したのでしょうか?」

その答えを知るには今後の発掘調査を待たねばならないが、戦争や政治、宗教、さらには古代ダダンの滅亡の一因となった壊滅的な大地震が関係している可能性がある。

クルは、イスラム期前夜の6世紀頃から12世紀にかけて栄えた都市だ。クルに人が住んでいた時期は、アル・ウーラの旧市街アル=ディラーと重なっているが、こちらは10世紀頃から人々が住み始め、20世紀に無人化するまで使われていた。どちらの都市も、全盛期には豊かな地域社会を持ち、メッカとマディーナの間を旅する巡礼者たちを迎え入れていた。

調査チームの一部の研究者は、渓谷のほぼ全長にわたって続くオアシスにある調査対象を全て記録することに専念している。

まだ解明されていないもう一つの謎は、ナバテア人以前にダダンを統治していた部族リヒャンと、ナバテア人との関係だ。碑文からは、両民族の言語が似通っているが異なるものだったことが分かる。

遅くとも紀元前600年から200年頃には、「ダダンは主要都市として繁栄し、ダダンとリヒャンの両王国の首都にもなっていました。ナバテア人が登場するより遥かに前から、この都市は香の貿易で利益を上げていたのです」とフットは付け加えた。「両民族の関係ははっきり分かっていません。また、ダダンから15km離れたヘグラへ都市が移動した理由も解明されていません」

この大規模な調査では、これまでの2年間でアル・ウーラの歴史的ルーツが徐々に明らかになっている。紀元前15万年から紀元前20万年の石器時代の石器が少数出土しているものの、これまでに発掘調査が行われた少数の遺跡は紀元前2,000年から5,200年に遡るものと分かっている。

これらの遺跡から発見された遺物のうち、最も古いものは炉床に残された木炭と羊またはヤギのものと見られる2本の動物の骨で、放射性炭素年代測定法によって紀元前5,200年頃のものと判定された。これらの遺物は、この土地がサウジアラビアと呼ばれるようになる7,000年以上も前からここに人々の暮らしが息づいていたことを鮮烈に伝えてくれる。

「ここを訪れる人たちのほとんどが、世界遺産のヘグラを見たがります」とフットは言う。「しかし、アル・ウーラを訪れる全ての皆さんには、この地域全体の大きな背景を知ってほしいと思います。自然も、文化も、見るべきものがもっとたくさんあるのです。それらが認知されれば、この地域は人気の旅行先になれるでしょう」

その中には、アル・ウーラ渓谷からわずか20kmの場所に位置するヘグラよりさら古いダダンの古代都市(現在のアル=フライバ)も含まれる。ダダンは15年以上前からリヤドにあるキング・サウード大学の調査対象になっているが、2月にはフランス国立科学研究センターおよびRCUの研究責任者を迎え、さらに充実した考古学プログラムが実施されることになっている。

5年間に及ぶこの野心的なプログラムの共同統括者には、キング・サウード大学の考古学助教授であり、RCUの歴史遺産コンサルタントも務める34歳のアブドゥラマン・アル=スハイバニが名を連ねている。

ダダンは、ナバテア人がヘグラに住み始めるより前の時代、遅くとも紀元前600年頃から200年頃にアル・ウーラ渓谷で栄えた都市で、その後謎めいた理由で歴史から姿を消した。この都市は長い間大きな謎とされており、アル=スハイバニとその共同研究者たちはこの謎を解明することを心に決めている。

パリ・ソルボンヌ大学でダダンの建築に関する研究で博士号を取得したアル=スハイバニは、「最も重要な疑問の一つが、ナバテア人の起源と、ナバテア人とダダン人の関係です」と語る。

ダダン王国およびリヒャン王国はナバテア人の文明より前から存在していたが、これらの文明が同時に存在していた期間は明らかになっていない。「ナバテア人が紀元前2世紀から3世紀頃にペトラからヘグラに移り住んできたことは分かっています。ここで問題になるのは、リヒャン王国の終焉と、同地域へのナバテア人の流入の関係です」

これまでのところ、考古学者たちは多くの推論を蓄積しているが、明らかになっている事実は少ない。アル=スハイバニは、「あるいは、実はナバテア人とリヒャン人は同一の民族なのでしょうか?」とも話している。

この謎の答えが見つかるとすれば、それは今後5年間に行われるダダンで初めての非常に集中的な考古学調査の中で、アル・ウーラ渓谷の豊かな土壌から発見される可能性が高い。

アル=スハイバニは、ダダンが最終的に「観光の観点からも、歴史的遺産の観点からも、アル・ウーラで最も重要な遺跡の一つになる」と信じている。

「考古学者ができる仕事の一つに、自国の文化的アイデンティティを明らかにすることがあります。我々考古学者は、同じ国に住む人々に対し、彼ら自身が持つ歴史的遺産と歴史を紹介する必要があります。子供たちにも働きかけて、我が国が隣国のエジプトやヨルダン、イラク、イエメンに負けない長い歴史を持つこと、そしてそれを誇りに思うことを教えなければなりません」

古代のクロスロードにおける現代的ビジョン

この地はかつて活気に満ちった王国の中心として、中東やさらに遠くからの商人、旅人、そして侵入者たちが集まった。今、サウジアラビアはアルウラとその遺産を、他に類のない文化的観光地として世界に開く計画を進めている。

歴史的なアルウラ渓谷は古代のクロスロードとして栄えた地で、王立委員会はここを世界に誇る21世紀の文化的オアシスとしてあるべき姿に復元することを目指す。

2017に設立された委員会は、「アルウラ地域の世界的な文化および観光の目的地への転換においてパートナーであるサウジアラビアを支援する」目的で2018年7月にパリで発足した、アルウラ開発のための仏団体「Afalula」と協力して事業を進めている。

2019年のLeaders誌とのインタビューで、RCU(アルウラ王立委員会)のアムル・アル=マダニCEOはこれを、「王国の旗艦プロジェクトの1つ」とし、「同地域の遺産を広め、アルウラをサウジにおける文化の中心地の1つへと転換する」という目標について語った。

地元住民関与の重要性について語るアルウラ王立委員会長のアムル・アル=マダニ氏と、チーフ・マーケティング・オフィサーのフィリップ・ジョーンズ氏。

ベルギーと同じ面積を持つアルウラは、「息をのむほど美しい砂漠の風景にあって、ディダーン、ナバテア、ローマ、イスラム文明の財宝が詰まっています。」

アル=マダニ氏はさらに、同地域は「まだ開拓されていないユニークな可能性があります。中東全体をつなぐ主要ルートの交差地点であったアルウラは、キャラバン、商人、そして巡礼者たちの合流点だったのです」と加える。

「世界中から訪れる人々が、アルウラの超越的な美しさに感動するでしょう。本当に偉大な場所なのです。そこを訪れれば、文明に続く文明がこの雄大な地を拠点に選んだ理由がすぐに分かります。」

王立委員会とフランスのパートナーが抱くビジョンとは、アルウラを「生きたオープンミュージアム」へと生まれ変わらせ、そこにユニークな博物館、古代遺跡、そして高級ホテルのネットワークを構築するというものです。

このプロジェクトの中核にあるのは、サウジアラビアが掲げる持続可能な開発のビジョン2030という青写真の礎石でもある、アルウラのコミュニティに機会を提供し、地元経済の底上げを図るという決意です。

旧市街の計画について語るアルウラのエンゲージメント・デリバリー部長アハマド・アル=イマム氏。

サウジアラビアから200億ドル(750億サウジアラビア・リヤル)の予算を与えられたAfalulaは、歴史的な渓谷におけるインフラ、考古学、観光の開発を行い、2035年までに年間観光客数200万人を目指す。その中で、アルウラの住人に向け3万5,000人分の雇用を創出する。RCUの仕事は、2035年までにサウジのGDPに1,200億リヤルを寄与することだ。そしてその大部分は地元の経済に注入されることとなる。

「アルウラでは、27か国の国籍を持った人々と一緒に仕事をしていて、雇用は完全に能力ベースです」、「リーダーシップ・チームの6割は女性です。地元のコミュニティについては、常にもっとできることはないかを考える必要があります。このプロジェクトの成功は彼らにかかっています。アルウラの経済再生がプロジェクトの中核にあるのです。」とアル=マダニ氏は話す。

プロジェクトはすでに実績を出している。5月には雇用データにアクセスを持つ政府高官が、アルウラは3年未満で雇用率2%の増加を達成。委員会は現在374人を雇用しており、うち134人がアルウラをベースにしている。また女性スタッフ116人のうち28人が管理職に就いている。

RCUはまた、2,500人の住民をアルウラの自然および文化遺産の擁護者として訓練するHammayaプログラムなどの活動を通して、地元コミュニティの関与を促している。さらに、RCUは資格のある応募者が米国、英国、フランスに留学してアルウラの開発計画に関連する分野を学ぶための国際奨学金プログラムの第2回目を実施した。

アルウラが世界への扉を開くなか、重要となるのは地域のローカル・アイデンティティと伝統の保全である。これは、地元住民を関与させるのと同じように、地元の農産物や材料を使うことだ。

「根本的な計画は、地元農家から農作物を調達するというのが基本的な計画です」とRCUのチーフ・マーケティング・オフィサーであるフィリップ・ジョーンズ氏はいう。「ここでは美味しい柑橘類やデーツなどが育てられており、年間を通してすべての活動やイベントでそれらを調達したいと考えています。」

10世紀から占拠され、1980年代に廃墟となったアルウラ旧市街の残骸。

アルウラ旧市街の中では、1979年にフランスのグルノーブルに設立された土製建築研究所であるCRAterreの派遣団が、地元の土を使って泥レンガを作り、旧市街の復元を進めている。これもまた現地の資源利用の例である。

「リゾートがあるだけの街では足りません」とアル=マダニ氏は指摘する。「訪れる人々がその匂いや雰囲気、そして街との親密なつながりを感じる必要があるのです。アウラには素晴らしい遺産がありますが、それはまだ実体のないものです」と。そしてそれこそがRCUの目指す、アルウラの精神の復元と再活性化なのだ。

それでも、息をのむような美しい場所に作られる高級リゾートや世界クラスの設備は、アルウラが誇る様々な文化的な楽しみを味わってみたいと世界中に思わせる魅力の一部分である。

ヘグラ(マダイン・サーレハ)から車で45分ほどのところにあるシャラーン自然保護区は、アルウラ郡内にある広さ925㎢の領域で、海外の専門家に訓練された地元のレンジャーが管理し、再導入された在来種が生息する、地域でも最も印象的な岩石層と砂漠が見られる場所です。ここは旅行者が世界有数の感動的な砂漠の風景を満喫できる魔法のようなスポットです。

地域の野生動物復帰とは何を意味するのかについて語る、パークレンジャーとして訓練を受けたアルウラ住民、バッサム・アル=バラウィ氏。

保護区の管理者であるアハメド・アル=マルキ氏によると「これまでにマウンテン・ガゼルと北アフリカダチョウを再導入し、どちらも健康で繁殖している」という。

アラビアヒョウも間もなくこれに続く可能性がある。今年の4月、絶滅危惧種を保護し、最終的には野生に戻すというサウジアラビア北西部で実施されているプログラムの一環として、今年の4月に2頭の幼獣が生まれた。

「私たちの目標は健康的な生態系を作り上げることです」、「この事業を開始したとき、私たちはサウジの野生動物管理局とタンザニアのパートナーであるムウェカ野生動物管理大学によって訓練を受けた地元コミュニティ出身のレンジャーを雇いました」とアル=マルキ氏は話す。

The astonishing Maraya concert hall, a giant mirrored cube that reflects and almost disappears into the landscape

もう一度言うが、プロジェクト成功のカギは地元コミュニティの関与だ。シャラーン自然保護区でレンジャーとして訓練を受けた地元住民のバッサム・アル=バラウィ氏は、「私はアルウラの住民であり、外から誰かが来るのを待つのではなく、住民こそが真っ先に行動を起こすべきです」とし、「このプロジェクトに関われて光栄です」と語る。

保護区にはいくつかの高級リゾートも建てられる予定で、そのうちの1つはルーヴル・アブダビも手がけたフランス人建築家のジャン・ヌーヴェル氏が設計する。同リゾートはレストランと高級スパに加え、5棟のヴィラ、40軒のレジデンシャルエステート、25部屋のスイートルームから成る。

最終的なデザインはまだ公開されていないが、リゾートは古代からあるアルウラの神秘的な岩石層に囲まれた、シャラーンの広大な渓谷に建てられるということ、そしてそのデザインはヘグラのナバテア建築からアイデアを得たものだということは確かだ。

2月にアルウラで開催された計画発表の際、ヌーヴェル氏は「世界有数の重要な史跡というロケーションから、シャラーン・リゾートの建設は素晴らしいチャンスを意味します」とArab News に話していた。

アルウラに建設されるもう1件の高級リゾート経営者はアマンリゾーツだ。2023年までにエコをテーマにしたリゾートを地域内に3軒オープンする計画で、1軒目はラグジュアリーテントのキャンプスタイル、もう2軒目は砂漠の牧場をイメージしたもの、そして3軒目はアルウラの遺跡近くに建てられるという。

他には、ジオ・フォルマ・スタジオが設計し、2018年にオープンしたマラヤ・コンサートホールも改装される計画で、座席数の拡大とレストラン、屋上テラス、そしてアート展を開催できる展示スペースの追加が予定されている。また、コンサート会場としてだけではなく、「反射」を意味するマラヤは魅惑的な芸術作品で、鏡になっている壁面は美しいアルウラの風景がさらに広広がっているように見せる。

Inside the Maraya concert hall, host to an eclectic range of international music stars during the annual Winter at Tantora festival

地域に流入するであろう観光客に対応するため、アルウラのプリンス・アブドゥル・マジード・ビン・アブドゥルアズィーズ空港も近代化計画でキャパシティを現在の年間利用者10万人から40万人に拡大する。今年末までにはリヤドからジェッダへのフライトも増便される。

アルウラのビジョンの中心にあるのは、芸術および文化活動の結合だ。2019年10月前半、RCUは文化マニフェストを発表し、プロジェクトが向こう10年間で計画している文化活動や建設される博物館について説明し、何より古代の地域に芸術・文化活動を組み込むことの重要性を強調した。

マニフェストには、「文化活動の拠点というアルウラのストーリーを継続させる」、また「アルウラは現代の偉大な芸術家や思想家が集まり、創造力を広げて最も野心的な芸術作品や芸術体験を実現できる夢の場所、つまり進化し続ける現代そして未来の文化的クロスロードとして世界中に知られるようになる」と書かれている。

これまで、古代文明からの贈り物であるアルウラは、世界最大の穴場スポットだった。しかしそれは、昨年12月に開催された第1回目の「タントラの冬」で海外からのゲストがこの地に集まると同時に変わり始め、2月のムハンマド・ビン・サルマン皇太子による地域のビジョン発表で大きな転機を迎えた。

アルウラ旧市街にある日時計から名付けられたこのフェスティバルは、何世紀にもわたって季節の変わり目を祝うため、違う形で地元住民によって開催されていた。それが2018年に大変身して復活し、世界クラスのミュージシャンをフィーチャーしたコンサートが8回の週末にわたって開催され、アルウラという場所が世界に知られるようになった。RCUはまた、旧市街における、アルウラをイメージした公開作品の創作を芸術家たちに委託した。

タントラの冬に出席するサウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマン皇太子。彼の前進的な改革が国を開き、主要観光地としてのアルウラの開発を可能にした。

タントラの冬はRCU後援のもと、今年も12月19日から3月7の期間で開催される。12回の週末にわたるお祭りで、訪問者はジプシーキング、ライオネル・リッチー、エンリケ・イグレシアス、クレイグ・デイヴィッド、そして英国のファンクバンド、ジャミロクワイなど、幅広いジャンルのミュージシャンによる演奏を楽しむことができる。タントラの冬に再び登場するのは、イタリア人テノール歌手のアンドレア・ボチェッリ、ギリシャ人ピアニストのヤニー、そしてエジプト人作曲家のオマール・カイラットだ。新年には、ベートーベンの音楽が同氏の生誕250年を祝って古代遺跡に響き渡る。

また、マルチメディア劇場作品の「Jameel Buthainah」公演、古代ナバテア人をイメージしたカラカラダンスのパフォーマンス、アルウラ・バルーンフェスティバル、ヴィンテージカーや飛行機の試乗、Fursanエンデュランス馬術競技などのイベントが予定されている。

古代に輝いていたように、アルウラ地域とその考古学的財宝は、サウジアラビアそして世界にとって、明るい未来の一部となった。

アル=マダニ氏は「アルウラは地球全体にとってチャンスとなる」、「サウジアラビアだけでなく、国際社会全体にとって、知識開発の拠点だ」と話す。”

古代のキャラバンがこの地に商売をしに来たのと同じように、アルウラも古代ヘグラの再誕とともに、世界中から旅行者を引き寄せるだろう。

サウジアラビアにとって輝かしい過去を再発見することは、黄金の未来を迎えるための絶好のチャンスとなる。

10世紀から占拠され、1980年代に廃墟となったアルウラ旧市街の残骸。

10世紀から占拠され、1980年代に廃墟となったアルウラ旧市街の残骸。

驚くほど美しいマラヤ・コンサートホール。巨大な鏡のキューブは風景を映し、そしてまるでその中に消えていくように見える。

The astonishing Maraya concert hall, a giant mirrored cube that reflects and almost disappears into the landscape

毎年開催されているタントラの冬フェスティバルでは幅広いジャンルの国際的大物ミュージシャンをホストするマラヤ・コンサートホールの内部。

Inside the Maraya concert hall, host to an eclectic range of international music stars during the annual Winter at Tantora festival

タントラの冬に出席するサウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマン皇太子。彼の前進的な改革が国を開き、主要観光地としてのアルウラの開発を可能にした。

タントラの冬に出席するサウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマン皇太子。彼の前進的な改革が国を開き、主要観光地としてのアルウラの開発を可能にした。

自然と人の手で、何千年もの年月をかけて、アルウラ渓谷は地球上で最も壮大な風景の1つに変貌しました。

自然と人の手で、何千年もの年月をかけて、アルウラ渓谷は地球上で最も壮大な風景の1つに変貌しました。

Credits

Writers: Jonathan Gornall, Rebecca Anne Proctor
Editors: Mo Gannon, Tarek Mishkhas
Creative director: Simon Khalil
Designer: Omar Nashashibi
Graphics: Douglas Okasaki
Photographer: Mohammed Albaijan
Videographer: Mohammed Albaijan
Video editor: Rawan Alkhelaiwi, Ali Noori
Photo editor: Sheila Mayo 
Copy editor: Michael Haworth 
Social media: Mohammed Qenan 
Research: Basma Hasubah
Producer: Arkan Aladnani
Editor-in-Chief: Faisal J. Abbas

アルウラ渓谷の砂岩の岩を何千年もかけてこのような素晴らしい形に削りとったのは、春と初夏に最も強く吹く北西からの風です。その中で最も興味深いものの1つがエレファント・ロックです。

アルウラ渓谷の砂岩の岩を何千年もかけてこのような素晴らしい形に削りとったのは、春と初夏に最も強く吹く北西からの風です。その中で最も興味深いものの1つがエレファント・ロックです。